
人生の低迷期を転換期に
1980年代、小渕ももさんはイラストレータとして数多くの企業からの依頼を受け、ポスターや広告物の仕事をこなしていました。小渕さんの作風は、まさに時代の空気を小気味よく映し出した独特のタッチで、多くの人々の共感を得ていました。
夢中で仕事に邁進していた小渕さんでしたが、日本経済のバブルがはじけると同時に、各企業の広告量は減り、小渕さんに依頼される仕事も急激に減ってしまいました。その上、プライベートでは、子育てからは解放されたものの、体調がすぐれない憂鬱な日々が始まりました。
やがて小渕さんは、この時期を「これからの人生をゆっくり考える好機」と思い直すことにしました。「これまでと同じことができなくて苦しんでいました。だったら、これまでとは違うことを始めようと思いつきました。『いつかやりたい』と思い描いていたことを実行しようと決意しました」と、当時を振り返る小渕さん。
小渕さんには、昔から「好きな場所を旅しながら、好きな絵を描きたい」という夢がありました。自分が予定していた時期より早かったけれど、この機会に人生の舵をきって方向転換してみようと決めたのでした。
どこでも旅先が仕事場
2000年、小渕さんはロンドンへ飛びました。多くの国で通用する英語を習得しようと英語学校へ入学し、さまざまな国籍の人たちと共に3ヶ月間、特訓を積んだ結果、英語力だけでなく、どこの国でも生きていかれる、という度胸もついた、と小渕さんは語ります。
2001年、アメリカの友人から「一緒に絵本を創ろう」との誘いがあり、サンフランシスコに渡った小渕さんは、絵本の舞台となる町で、強烈ないのちの輝きを放っている花たちに出遭いました。その花々の魅力は、小渕さんの白紙状態だった心に深くつきささりました。まるで啓示がもたらされたかのように、小渕さんは一心に花々を描き始めました。ダリア、ひまわり、あざみ、なでしこ、スカビオサ…。どの花も美しい個性がきわだって、あでやかに生を謳歌している存在として描かれたのです。この花々の絵はひとつにまとめられ、「サンフランシスコの花」という作品集となって日本で出版されました。
人生の転換期の舵取りに自信を得た小渕さんは、再度、イギリスへ渡り、かねてから憧れていた映像アーティスト、デレク・ジャーマンの「庭」を訪れました。ドーバー海峡に面した廃墟のような庭が語りかけるメッセージを、小渕さんは次々と作品に昇華していきました。これらの作品に詩が添えられて「デレク・ジャーマンの庭」(アートン刊)という一冊の本を完成させました。
孤児たちから教えられた絵の原点
こうして「自分が居る場所で仕事ができること」を小渕さんは実現したのです。日本に戻り、イラストの仕事をするかたわら、小渕さんは、アジア服の制作に携わる友人から頼まれて、刺繍の図柄を描くことになります。
そしてその友人を通じて、タイのチェンマイでエイズ孤児たちのホームを運営する女性と知り合い、活動の一端を聞くようになったのです。小渕さんは刺繍の仕事でベトナムへ出かけた際、チェンマイへ立ち寄りました。
このホームは、バーンロムサイという名で、両親をエイズで亡くし、自らもHIVに母子感染した孤児たち(2歳から13歳まで)が30名ほど暮していました。心をうたれた小渕さんは、何か手助けができればと、子供たちと共に造形活動をすることになったのです。
小渕さんは言います。「私はイラストレータだったので、依頼主のリクエストに沿って創造性を発揮し、時代のセンスを盛り込むのが仕事でした。でも、子供たちから絵の原点を見せつけられて、自分ももう一度こんな気持ちで絵を描いてみようと思いました。子供たちを助けるつもりが、自分が子供たちから無限大のパワーをもらっていることに気づきました。これからの自分の創作活動の原動力に結びついたこの出逢いに感謝しています」。
このインタビューのあと、子供たちと再会するため、小渕ももさんはチェンマイへ旅立ちました。
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小渕ももさんの「バーンロムサイ便り」は、
次号の「からだ再教育通信」から連載されます。
どうぞお楽しみに。
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