
ふと触れた相手の手のひらや指先が、意外に冷たいことがある。「冷たいね」というと「手の冷たいひとはこころがあたたかいのよ」。そんな答えが返ってきた時代がある。誰だってこんな科白を一度や二度言ったり聞いたりしたおぼえがあるだろう。手が冷たいことは、それだけ心の炎が燃えている証しで、「こんなにもあなたのことを思っている」というようなことを代弁してくれるのだった。これは女性から男性に対する最高の殺し文句でもあったろう。だから、どこかで手の温度と心の温度は反比例するのだと、信じられてきたふしがある。ところが…。
「手の冷たいひとはこころがあたたかい」のか?
すでに手の先も冷たいが、心のほうも温かいとはいえない。胸を焦がす相手がいるわけでもない。そのことに気がついている自分がいる。じっさい足だって腰だって、からだが全部「冷たい」のだ。だから何かの折に「冷たいね」といわれれば、「心が燃えている」とはとてもいえない。冗談はやめて、ストレートに「冷え性です」といわざるをえない。テレビのCMも毎日のように「冷え性には○○酒を」という時代だから、少しトシをとれば冷え性などなって当たり前、ならない方がおかしいという心境になっている。とどのつまり「そうよ、どうせわたしは冷え性よ」という科白に変わることになる。手と心の温度は比例してしまっている。
そこで、あのときの指先も「ただの冷え性」に過ぎなかったのではないか、と考えてみる。手も冷たいし、心もからだも冷たい。こういうことは、数年もすればいやおうなしに気づかされる。生活に向き合えば「からだ」があらわれてくる。「冷え性」もこの例外ではない。そして今や、冷たい手となれば、即「冷え性」であろう。「手が冷たい人は心があたたかいのよ」。今時の女性がこんな科白を吐く可能性はないに等しい。古い言い回しを使えば「1億総冷え性」時代ということになる。みんな分かっている。するとかつての「心があたたかい」というのは冗談か嘘だということになるのだが、果たしてそれでいいのか。
三木成夫博士(故人、解剖学者)に、体壁系と内臓系という言葉がある。体壁はからだの壁つまり外側で手足頭を、内臓は内側で五臓六腑を意味する。そこから上にいう「手の冷たさ」は体壁系に属し、「心の温かさ」は内臓系に属することがわかる。血液が内臓に流れているときは、体壁には流れない。このことは、食後30分は風呂に入るなというような言い伝えにもあらわれている。つまり消化するための時間は内臓系に血液を集注させるべきで、運動したり風呂に入ったりすれば体壁に血液が流れ、消化活動がうまくいかない。消化を助けるために、食後の労働、運動は避けるべきである。「親が死んでも食休み」という言葉など、そのことの大事さがこめられている。
「手の冷たいひとはこころがあたたかい」もここから考えれば、いちおう冷え性とは関係がない。冷え性があってもなくても「手の冷たいひとはこころがあたたかい」。なぜなら心臓や肺に血液が集中して相手を激しく思いこんでいる場合には、からだの外側に血液が流れにくく、その結果、手足は冷たいということになるからである。内臓系と体壁系のあいだを、血液が行ったり来たり、まんべんなく往復しているぶんには「冷え性」というのはありえない。毛細血管を通過するさいに赤血球が血管の内壁をこするから熱が発せられるのであり、この熱がある限りは「冷えない」のである。血液の循環障害あるいは内臓・体壁相互への配分障害がない限り「冷え性」はおきない。「心のあたたかいひとの手は冷たい」という状況は、この理想状態においてのみ成立する。
ところが実際には、血液の循環障害、配分障害のないひとというのは存在しないだろう。その証拠には、タマネギや納豆を食べろという類の「サラサラ血液」論が大流行である。
例えば「心痛」ということは本当にあるし、それは血液の映像でも肉眼でもみることができる。愛犬が死んで心臓が痛むこともあれば、恋愛で胸が苦しいということもある。肉親の死はショックで、これが生涯のストレスになり続けることだってある。心痛という心臓(内臓系)におきた血流停滞は、手足頭(体壁系)への血液配分をいくぶんか減少させることになるだろう。心痛に限らないこうした痛みの後遺症、つまり日常生活におけるさまざまな障害と、それが原因になっておこる血液の循環と配分の障害を、ひとはいつまでも抱きかかえて生きていかざるをえないようになっている。内臓におこれば、体壁側へ血液は流れにくくなる。体壁におこれば内臓へは流れにくい。これが手術や事故、放射線、クスリ、あるいは強いストレスを受けたあとの新たな現実となる。東洋医学でいわれてきた言葉によれば「オ血」であり、「冷え性」もまたこの別の表現と受け取ってもいい。西洋医学では、血液の泥(スラッジ)という言い方をするが、言い方はともかく、これらの存在は現代人にとって不可避的現実である。その端的な特徴は「冷たい」ということである。ほんとうにそれは、触ってみればぞっとするほどに冷たい。そう、ぞっとするほど。だから、自分自身のからだの内部で起こっていることの意味を、真剣にたずねてみたほうがいい。