
ガンや心臓病、脳血管疾患などの3大「成人病」が、「生活習慣病」という呼び方に変えられて久しい。必ずしも成人だけがかかる病気ではないし、個人なり家族の生活習慣によるところが大きいからそうなったらしい。ところがいまだに「小児成人病」という言い方もあるから、ことはわかりにくい。小学校3年生になると「成人病検査」を実施する学校があることを聞いて、またまたびっくりしたり、妙に納得させられたり。しかし、これをこそ「生活習慣病検査」と呼ぶべきではないのだろうか。しかも、その名にふさわしい内容で。

「生活習慣病」という言い方に変えられたときは、「どうせ今の医学では成人病を治せないのだから、生活習慣のせいにして国民に責任転嫁してしまえ」ということではないかと勘ぐってみた。「予防医学」という言い方にしても同じで、「治らない」「治せない」から、「予防が大切」ということにしてしまった。いずれ「治せない」ことは同じで、病気になって医者に行くと「もはや手遅れ。これまでの生活のなかで予防してこなかった君が悪い」といわれても、文句はいえない。なにしろ「自己責任」の時代なのだから。さじは初めから投げられている。
もっとも手術はするし、クスリはたくさんよこす、放射線はバンバンかける。それが「からだ」にどんな影響を与えているか、ほんとうのところは誰もわかっていないのではないか。からだの「細胞」までは内視鏡でもレントゲンでものぞけない。もしくは、知っていても素人には知らせない。うちわ話で「このクスリは身内には使えないね」といっている誰かの声が聞こえてきそうだ。
そうなってくると、もはや医師をたずねることはごく限られた場面に限定されてくることになる。自己意識が不明で救急車でかつぎこまれるとか、痛みや苦しみがもはや我慢の限界といったときとか、はたまた死亡証明書を書いてもらうときなどなど。それ以外は、日常生活のなかでひたすら病気予防の対策を講じなくてはならないし、それを即実戦に生かさなければ意味がない。さぼっていれば、いずれツケはまわってくる。相手は、有名を馳せるガン、脳梗塞、心筋梗塞、糖尿病などなど、いずれ劣らぬ難敵ばかりである。「医者が治せないのに、なんでおれが治さなければならないんだ」と抗っても無理。なにしろ「生活習慣」病なのだから。
さて、そんな戦いがわたしたち素人にできるのか。
そこで問題になるのが「からだの自立」ということである。自立の自は「おのずから」「みずから」の意味である。前回、からだは「空っぽだ」と書いたら、「空が立つ」と書いてからだと読ませるという指摘があった。そういわれてみればまことにそのとおりで、空っぽのパイプも、四足にしろ二本足にしろ立って移動しなければ食べものにはありつけない。少し難しくいえば「から」が内臓系、「だ」が手足頭といった体壁系ということになる。したがって、「からだの自立」は内臓系と体壁系(この中間に免疫系がある)が、「おのずと」「みずから」立っていることになりそうである。
よく「経済的自立」とか「女性の自立」「精神的自立」とかいわれるが、「からだの自立」ということはこれまであまりきいたことがない。ひらたくいえば「自分の健康は自分でまもる」といったようなことだが、「まもる」以上に「つくる」という積極性がないと「自立」ということには結実していかないだろう。「生老病死」には個人差がある。あるひとの「生」は長く、あるひとは短い。早々に「老ける」ひともあれば、「生涯現役」のひともある。「病んで」寝たきりのひともいないではない。ピンピンしていたとおもったら、眠るが如く召されたひともおられる。それぞれの人生の「生老病死」のスパン(ひろがりあるいはちぢまり)は、いったいどのようにして決められるのか。ただの偶然にすぎないのか、前世からの因縁、もって生まれた宿命なのか。はたまた守護霊さまのおまもりなのだろうか。それらすべてを考慮に入れても、「からだの自立」は必要であるというのが今のわたしの心境である。父は71歳で十数年前に脳梗塞で他界した。兄は今のわたしの歳、58歳で胃ガンで死んだ。母は84歳で元気にしている。わたしが「無自覚に」死ぬわけにはいかない。
「からだの自立」のためには、すこしばかり大きな虫眼鏡があるといい。